コラム「スポーツ編」
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掲載日2007-10-24
300万ヒット記念特集・蔵出しの蔵出しコラム
「スポーツ編」 第3弾!

スポーツ編の「蔵出しの蔵出し第3弾!」は昨年9月18日にアップした評論『スポーツへの熱狂を肯定する』です。この原稿はスタジオジブリ発行の機関誌『熱風』(2006年3月発行)の特集「スポーツに魅せられる」に寄稿したものです。我々日本人にとって、スポーツは輸入された異文化であり、はたして正しく理解されているのだろうか…という疑問は、現在も持ち続け、考え続け、「亀田騒動」のようなあらゆるスポーツに関する問題も、そのような視点から見直すようにしています。というわけで、この原稿に書いたものが、スポーツに対する小生の基本的スタンスと言えます。


掲載日2006-09-18

この原稿は、今年(2006年)3月に発行されたスタジオジブリ発行の機関誌『熱風』の特集「スポーツに魅せられる」に寄稿したものです。最近拙著『スポーツ解体新書』が朝日新聞社から文庫化されること(朝日文庫)が決定し、それを記念して内容的に同じベクトルの原稿を“蔵出し”します。ちょっと長いですが(これでも一部カットしたのですが)ご一読を。

スポーツへの熱狂を肯定する

BOOK
スタジオジブリ発刊の小冊子『熱風』
スタジオジブリ発刊の小冊子『熱風』

 今から約100年前の19世紀末、いわゆる「世紀末」という言葉が人口に膾炙した頃のイギリスで、ある新聞に発表された面白い一枚の漫画がある。
 中央に立っているのはシルクハットをかぶりモーニング姿(正装)のオスカー・ワイルド。『サロメ』『ドリアン・グレイの肖像』といった耽美的な戯曲や小説で名を馳せた作家である。

 彼の周囲には、シャツとパンツの軽装でランニングをしたり、ボールを蹴って走りまわったり、自転車に乗って疾走している若者たちが描かれている。その前でワイルドは、呆れた顔で呆然と立ちすくんでいる。そんなに動きまわって何が面白いのか、といわんばかりの表情で・・・。

 漫画のタイトルは『Esthetician & Athletician』(エステティシャン&アスレティシャン)。日本語に訳すなら「審美主義者と競技主義者」とでもなるのだろうか、「世紀末」のヨーロッパ社会の様子が、当時を象徴する二種類の正反対の人物の姿によって描き出されている。

 これより少し以前、ショーペンハウエルは、多くの人々が「ボールゲーム」に興じる姿を見て、「球を投げたり、球を打ったり、いったい何になるんだろう・・・」と嘆いたという(短編小説集『12人の指名打者』文春文庫の神吉拓郎氏の解説より)。このときショーペンハウエルの目にした「遊び」が、クリケットだったのか、ベースボールに進化する前のゴールボール、タウンボール、ラウンダースなどと称されたボールゲームだったのか、詳しいことはわからない。が、ともかく、人生に深いペシミズム(厭世主義)を見出した19世紀ドイツの大哲学者は、イギリスの耽美主義作家と同様、身体を動かして遊ぶ若者たちの態度を肯定することはできなかったようである。

 「身体競技」や身体を用いた「球戯」など、今日「スポーツ」と総称されている「身体活動」のルールが確立され、クラブ(チーム)や運営組織が整えられ、競技会が頻繁に開催されるようになった(近代スポーツが誕生した)のは、19世紀中盤から後半のヨーロッパ(主としてイギリス)でのことだった。

 そして、それらの競技や球戯は、欧米で多くの人々に受け入れられ、熱狂的に愛されるようになった。が、一部の人々――主として「知識人」と呼ばれる人々――は、そのような「スポーツ」の流行を冷めた目で見つめ、嫌悪感すら抱いたようである。

 その事情は、明治維新後の「文明開化」によってスポーツが西洋から伝播した日本でも同じだった。
 夏目漱石は、1905〜1906年に発表した『吾輩は猫である』のなかで、野球に興じる若者たちを次のように揶揄している。〈擂粉木(すりこぎ)の大きな奴を以て任意に之(ボール)を敵中に発射〉し、〈わーと威嚇性大音声を出す〉ため、〈主人は結果として手足に通う血管が収縮せざるを得ない〉。
 また、『それから』のなかにも次のような記述を残している。〈誠太郎、おまえはベースボールばかりやるもんだから、このごろ手が大変大きくなったよ。頭より手のほうが大きいよ〉

 改めて断るまでもなく、「知識人」とは洋の東西を問わず「頭」(のなか=脳)を使う人たちのことであり、「手」(身体)を使うことには価値を見出し得なかったようだ。
 とはいえ、いつの時代でも「知識人」のすべてが身体活動を否定し、頭を使う(思索する)ことのみを肯定していたわけではない。

 オリンポスの祭典競技(古代オリンピック)に、みずからパンクラチオン(今日のボクシングとレスリングを合わせたような格闘技)の選手として出場したこともあった古代ギリシアの大哲学者ソクラテスは、弟子のカルミデスに向かって次のように語ったという。
 〈われわれの魂に属するものも肉体に属するものも、素早く動くもののほうが、遅鈍で物静かなものより、美しく見える。したがって思慮の徳とは物静かさではなく、思慮ある生活が物静かでもないはずである〉(プラトン『カルミデス』より)

 紀元前800年頃から約1000年にもわたってオリンポスの祭典競技を開催し続けた古代ギリシア世界では、高度な精神活動(思索による思想の創造)が花開くと同時に、高度な身体活動もまた、高く評価されたのだった。
 しかしその後、身体は亡びても霊魂の永遠の不滅を説くキリスト教がヨーロッパ社会に広がるとともに、身体よりも精神を優位に考える思想が一般的となり、近代的自我の確立(キリスト教的「神」からの独立)の時代を迎えても「我思う、故に我在り」(デカルト)「人間は考える葦である」(パスカル)といった「精神性」が強調されるようになり、身体に対する精神の優位が常識とされ続けるようになったのだった。

 一方の東洋では、身体は煩悩の宿る場所として、精神(的修行)による身体の克服を説いた仏教、現実世界を否定して夢想や思索の世界を尊んだ道教、「仁義礼智信」をもとに為政者の「徳」を説いた儒教など、いずれも、身体に対する精神の優位を基本にした考え方が広がり、「身体文化」はまったくといっていいほど発達しなかった。

 そんななかで、洋の東西を問わず、「身体」とは、「労働と生産のための道具」、あるいは「闘い(戦争)に勝つための道具」としてのみ評価され続けたのだった。
 そんな考えが支配的ななかで近代スポーツが産声をあげた。多くの人々が、走ることの楽しさ、ボールを打ったり蹴ったりすることの面白さ、そして、それらを他人よりも上手くやってのけることの爽快感に目覚めるようになったのだ。労働でもなく、生産にもつながらず、闘いの勝敗が生死につながらず、ただ身体を動かして汗を流すことで快感を味わい、それをゲーム化してそのゲームに勝つことに喜びを見出すようになった。それは、身体エネルギーの無駄な浪費ともいえる行為だった。

 そのような「無償の行為」が、古代ギリシアと近代イギリスという、世界で最も早い時期に議会制民主主義制度をつくりだした地域で誕生した、という事実に注目する歴史家もいる。世の中が、武力(武器を手にした身体を用いた戦争)の優劣によって支配者が決定されていた社会から、言論によって為政者を選択する制度に移行した結果、武力(身体の力)は実質的に無力化し、その結果、用いる場所と機会が失われた「身体の力」はゲーム化され、遊びの世界――すなわち、スポーツへと移行した、というのだ。

 民主制ではなかったが、日本の江戸時代約250年の「徳川の平和」のなかで、あらゆる武術が「武道化」したのも、一種のスポーツ化といえるだろう。
 すなわち、スポーツは、議会制民主主義と平和のなかから生まれた文化といえるのだ。

 とはいえ、民主化し、戦争のない社会が生まれたのは世界のなかのごく一部の地域で、世界のすべての地域から、政権争奪の闘いや、国と国のあいだの戦争がなくなることはなかった。その結果、「武力」としての「身体の力」のすべてが無償の遊びの世界(スポーツ)へと移行することもなく、逆に「身体の力」を増進させるスポーツ競技は、為政者(支配者)によって「武力」の向上につながる行為として利用されるようになった。

 イギリスで生まれた近代スポーツの一種であるボクシングやフットボール(ラグビー)やボート競技が、オックスフォードやケンブリッジといったエリート大学で発展したのは、七つの海にまたがる植民地の住民を支配する「身体の力」(武力)を身につけるためにほかならなかった。また、イギリスのエリートたちがスポーツによって身体を鍛える姿を目の当たりにしたフランス人のピエール・ド・クーベルタン男爵は、普仏戦争(プロシア=ドイツとフランスの戦争)の敗戦によって傷つき「力」を失ったフランス国民の身体と精神をスポーツで復活させようと企図し、近代オリンピック大会の開催を提唱したといわれている。

 そのようにして、民主主義と平和のなかから誕生した「無償の遊び」としての近代スポーツは、同時に「武力」としての「身体の力」を向上させるというアンビバレントな要素を内包するなかで、世界へと広まったのだった。

 文明開化の時代の日本に、欧米文化のひとつとしてスポーツが伝播したときも、そのような矛盾した二つの側面が包含されていた。そして日本人は、それが面白く楽しい「無償の遊び」であることに気づきながらも、「富国強兵」によって欧米列強に肩を並べる一等国を目指した時代と社会のなかで、スポーツを行う「有償」の理由、つまり「武力」としての「身体の力」を向上させる意義を前面に押し出すようになったのだった。

〈およそ運動はいかなる運動でも、運動そのものが目的ではない。体を練ると同時に、精神の修養をなし、他日おおいに活動する土台を作るものである〉
 これは明治時代の東京師範学校蹴球部が残した言葉だが、「他日おおいに」おこなう「活動」が、「戦争」であり、スポーツによって鍛えられた「身体」と「精神」は「兵士の力」にほかならず、明治政府は、そのようなスポーツ活動(学校での体育・軍事教練)を推奨したのだった。

 身体よりも精神の優位が当然と考えられていた知識人のあいだでは、遊びとしての身体活動を素直に認知できなかった。そのうえスポーツが、直接的に戦争に結びつく行為となれば、その存在はますます認められなくなる。
 夏目漱石は『三四郎』のなかで、東京帝国大学で行われた〈運動会〉での〈長飛(=走り幅跳び)〉や〈槌投げ(=ハンマー投げ)〉を描写し、何も面白いと思えない主人公(三四郎)の思いを通して、次のように書いた。〈運動会は各自勝手に開くべきものである。人に見せるべきものではない。あんなものを熱心に見る女は悉(ことごと)く間違っている〉

 それは、欧米から伝播した最新の文明(スポーツ)を理解できない田舎者(三四郎)と、それを楽しんでいる近代女性(美禰子)の対比を示すシーンだが、〈各自勝手に開くべきもの〉という一文は、漱石が帝国大学の「運動会」に国策(富国強兵)の臭いを嗅ぎ取ったようにも思える。
 そしてその後の漱石は、名作『こころ』を発表する。そのタイトルから、「心」と「身体」という二つの要素から形成されている人間の一方だけを選択したという意識は感じられず、多くの読者(日本人)も、「心」を語ることのみで人間を語ることができる、と無意識のうちに納得したのだった。

 このような「身体活動」(スポーツ)に対する否定的見解は、つい最近まで(ほんの十数年前まで)多くの日本の知識人が、ごく自然に心の奥に抱いていたものといえる。
 私が「スポーツライター」を名乗ってメディアで文筆活動を始めたころ(1970年代)、「スポーツライター」と自称するだけで、編集者や作家、テレビのプロデューサーやディレクター、アナウンサーやニュースキャスターなどから、少々軽蔑を伴った眼差しで見られたものだった。また、メディアで働いている人々(一流の大学を出て一流の新聞社やテレビ局に就職した人々)のなかには、圧倒的に「スポーツ嫌い」の人が多かった。彼ら団塊の世代よりも上の人々の多くは、スポーツマンやスポーツ関係者を「体育会系」と見なし、心の奥底で軽蔑し、否定していた。

 その理由としては、身体よりも精神を優位と考える先入観や、スポーツが戦前の国策(戦争)に歩調を合わせていたことに加えて、戦争を否定した戦後の平和憲法のもとでも、為政者によるスポーツの政治利用が続き、スポーツマンがそのことを無批判的に受け入れていたと言う事実に対する嫌悪感も存在していたように思える。

 戦前のナチス・ヒトラーが国威発揚に用いたベルリン・オリンピックでは、「前畑がんばれ」に代表される日本人の熱狂が、軍国主義政府による侵略戦争の隠蔽と、社会不安のガス抜きに利用された。それと同様、戦後の混乱期の社会不安は力道山の活躍とプロ野球人気の隆盛によって解消され、1960年の日米安全保障条約改定をめぐって数十万人のデモ隊が国会議事堂と首相官邸を取り囲んだときには、当時の岸信介首相が「健全な国民は後楽園球場へ巨人阪神戦を見に行っている」とうそぶいた。

 そして団塊の世代を中心に全国各地の大学で学園紛争の嵐が吹き荒れたときは、多くの体育会系学生が大学側の「ガードマン」としてその鎮圧に動き、スポーツマンとスポーツ関係者は、無自覚的に日の丸を掲げ、君が代を歌った・・・。
 それらの結果、ほんの十数年前までのスポーツに対する「知識人」(マスコミ人)の評価は、ジャーナリストの大宅壮一の次のような言葉に集約されていたといえる。
「スポーツは社会の阿片である」

 そんななかでもスポーツに対する人気はどんどん上昇し、本当は「スポーツが大嫌い」だった多くのマスコミ人も、それを無視できなくなった。しかし、この「スポーツ人気」を、メディアは、まだ正確に捉えきれないでいる。「社会の阿片」としてではないスポーツの真の価値を理解しきれないでいる。

 多くの人々がスポーツに熱狂するのは、一言でいって、それが面白いからであり、楽しいからにほかならない。人間が、その身体の動きの極限を目指して運動する姿は、見る者の心をふるわせるほどの迫力と美しさに満ちている。しかも、本質的に意味のない(100メートルを九秒で走ろうが、四回転ジャンプをしようが、ボールをゴールネットに蹴りこもうが、それ自体には何の意味もない)行為であるスポーツは、その意味のなさによって純粋な感動を呼び起こす。

 さらに、じつは何のために生きているか判然としない人間の一生(人生)で、無意味な行為に純粋に邁進する姿は、多くの人々に勇気を与える。また、スポーツマンやスポーツチームと「一体化」(して応援)することによって、多くの人々が日々の生活とは異なる喜びや楽しさを得ることもできる。

 多くの人々が、スポーツに熱狂したり興奮したりするのは、無意識のうちにそのような意識が働いているからだろう。そして、それらスポーツの原点というべきスポーツの魅力のすべては、近代スポーツが誕生したときの最も重要な要素である「武力」としての「身体の力」のゲーム化、すなわち民主主義と平和に根ざしている、といえるのだ。

 つまり、純粋にスポーツを楽しむ(見たりやったりする)には、民主主義と平和が保証されていなければならず、暴力や戦争よりもスポーツを愛することは、民主主義と平和を推進することにつながるはずなのだ。だから、反民主主義勢力、反平和主義勢力は、そのようなスポーツの本質をねじ曲げ、スポーツを支配し、スポーツに対する人々の熱狂を政治的に利用しようとしたのだ。

 スポーツにおけるナショナリズムは、たとえばサッカーの場合は「90分間のナショナリズム」であり、オリンピックの場合は「二週間のナショナリズム」にすぎないものを、為政者(権力者)は「90分」や「二週間」を超えたものにしようと画策した。

 さらに、ポスト・モダンの思想家であるメルロ・ポンティが「私とは私の身体のことである」という言葉によって「我思う、故に我在り」という近代の思想を超克し、ダンサーで振り付け師のモーリス・ベジャールが「20世紀最大の発見は、我々自身の身体である」という言葉を残したように、スポーツの発展と歩調を揃えるようにして、精神のみでなく身体をも重視する思想が出現した。

 そのような人間の身体に対する考察は、オリンピックにおけるドーピング問題(遺伝子ドーピング)、パラリンピックや臓器移植者によるスポーツ競技会などによって、未来の人類がどのような身体を持ちうるのか(それは改造人間や人造人間にまで至るのか)ということが、実践的に検証されているともいえるのだ。

 民主主義、平和、未来の人類の身体・・・。
 かつて知識人(ジャーナリスト)によって「社会の阿片」と称されたスポーツには、じつはそれほど重要な価値があるのだ。そういう理解が広まったうえでの「熱狂」となれば、スポーツがさらに素晴らしい文化として、われわれの社会や暮らしを豊かにしてくれるはずだが・・・。

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