コラム「音楽編」
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掲載日2007-04-02

この原稿は、季刊『弦楽ファン』2006年夏号(ヤマハ・ミュージック・メディア)に寄稿したコラムです。楽器ができないものの僻みのような原稿ですが、お楽しみください。

男の子がヴァイオリンを弾くのは恥ずかしいことだった・・・?

 ヴァイオリンの音楽が好きになれない。そんな不幸な情況が、長く続いた。原因は判然としている。いまから半世紀近く前の小学校低学年のとき、「学芸会」の催しでヴァイオリンを弾いた同級生がいた。われわれ普通の小学坊主がカスタネットやトライアングル、せいぜい木琴や鉄琴しか触れないなかで、ある医者の息子がヴァイオリンを奏でたのだ。

 2〜3人の女の子がピアノを弾いたことには、何とも思わなかった。が、同級生の男子がヴァイオリンを手にしたことは、許せなかった。わたしだけではない。草野球仲間の誰もが、唖然と目を剥き、非難の声をあげた。
 「男のくせにヴァイオリン! シスターボーイやないか!」

 「シスターボーイ」というのは「なよなよした女の子みたいな男」を意味した当時のちょっとした流行語だった。その言葉を浴びせられるのは、近所にある寺の境内での草野球で三振をしたり、トンネルをすることよりも恥ずかしいことだった。

 男子は野球、女子は音楽。そんな先入観が常識だった時代、男子がピアノを習うことも珍しかった下町の商店街にある小学校で、ヴァイオリンを手にした男の子は、驚きと非難と軽蔑の混じり合った視線を浴びながら、恥ずかしそうにおどおどと弓を動かした。

 その音を聴いた瞬間、草野球仲間の悪餓鬼どもは、非難と軽蔑を、失笑と嘲笑へとエスカレートさせた。心の奧でわずかに感じていた劣等感や憧憬も完全に消え失せた。
 それほどひどい音色だった。鋸でガラスを削ったか、ロバが悲鳴をあげたか。そんな音で流れ出した『キラキラ星』のメロディに、自分の叩く木琴や大太鼓のほうがよっぽどマシだと誰もが確信した。

 その男の子が、なぜ「学芸会」の舞台に立ったのか、いまでも理解できない。担任の女性教師が、そういう男の子もいることを自慢したかったのか…? もしもそうなら、罪なことをしたものだ。
 その日以来、その男の子はヴァイオリンを捨て、草野球に邁進するようになった。誰よりも懸命に走り、石がゴロゴロする砂地でも激しくスライディングした。そうしないと、悪餓鬼仲間から完全に村八分にされるのは、火を見るよりも明らかだった。

 もっとも、まもなく私自身も、ヴァイオリンを弾いた男の子と似たような立場に立たされることになった。というのは、クラシック音楽が好きになってしまったのである。男のくせに……。

 家が電器屋をやっていた関係で、店には最新式のステレオがあり、試聴盤のレコードが何枚かあった。それを繰り返し聴くうちに、いつのまにかベートーヴェンやチャイコフスキーに心を震わせられるようになってしまった。
 おまけに夏休みのたびにあずけられた親戚の家で、かつて音大のピアノ科を卒業し、なぜか数学の教師をしていた叔父から、ワーグナーやモーツァルトの薫陶まで受けてしまった。

 小学校の高学年になる頃に、クラシック音楽が好き、などといえば悪餓鬼仲間から「シスターボーイ」の烙印を押される。それは太陽が東から昇ることより明らかだった。
 私は、音楽のことは一切口を閉じ、以前よりも大きな声を張りあげてバットを振り、ベースを駆け回った。そして家に帰ったあと、まるで隠れキリシタンのように、ステレオから流れ出るシンフォニーやコンチェルトに耳を傾けたのだった。

 そんな馬鹿馬鹿しい情況は、中学生になると終止符が打たれ、少数ではあったが、フルトヴェングラーは凄い、バーンスタインはカッコイイ、グールドが好き、カラヤンは嫌い……などと生意気な話のできる友人も現れるようになった。
 が、ヴァイオリンだけは、ダメだった。どうしても聴く気になれなかった。

 ハイフェッツは凄いぞ、いや、なんといってもメニューインだ、クライスラーも聴いたことがないのか? などと友人からいわれても、話を合わせることができなかった。
 もちろんヴァイオリンをまったく聴かなかったわけではない。クラシック音楽入門の定番ともいうべきメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲も、そのLPレコードの裏面に(かつては)必ず入っていたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲も、聴いてはいた。

 しかし好きになれない、というか、ハイフェッツを聴いてもオイストラフを聴いても、どうしても鋸とロバを思い出してしまった。いや、おどおどと鋸とロバを奏でたままで終わってしまった友人のことが頭に浮かんだ。そのまま続けていたら、こんな美しい音を弾けるようになったかも…と思うと少々心が痛んだ。だから、メンデルスゾーンもチャイコフスキーも、ベートーヴェンもブラームスも、落ち着いて耳を傾けることができなかった。

 オーケストラのなかのヴァイオリンの音や弦楽合奏には、何も問題はなかった。が、ソロの音色には、過去の記憶がトラウマのように反応した。
 心の襞がまだ柔らかい幼い時期に刻み込まれた記憶というのは、なかなか除き取ることができないもののようで、ベートーヴェンの弦楽四重奏やシェーンベルクの『浄められた夜』も弦楽合奏でしか落ち着いて聴くことができなかった。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートも、ボスコフスキーがヴァイオリンを弾かなければいいのに…と思ったくらいだった。

 その後、わたしが『ニーベルンクの指環』や『トリスタンとイゾルデ』や『ばらの騎士』、『オテッロ』『ファルスタッフ』『ラ・ボエーム』『トゥーランドット』さらに『フィガロ』や『コジ』に走り、オペラ・フリークになって純クラシックをほとんど聴かなくなったのは、ヴァイオリン独奏恐怖症に後押しされたことも一因だったかもしれない。

 そんな神経症が、30歳を超えた頃のある日、スカッと綺麗に消えてなくなったのは、偶然ラジオでショスタコーヴィチの弦楽四重奏第8番を耳にしたからだった。それは劇薬として、鮮やかな効果をもたらした。
 鋸とロバが、そのまま見事な音楽になっていた――と書くと、ショスタコーヴィチのファンの方に叱られるかもしれない。が、ヴァイオリンのあまりに生々しい響きの迫力と輝きに、心の奥にある私の琴線が共鳴した。

 医者の息子の奏でた音も、紛れもないヴァイオリンの音で、失笑し嘲笑したわれわれのほうがバカだっただけなのだ。おれたちのせいじゃない、鋸とロバ(自分の音)に自信を持てなかったおまえが悪かったのだ……。鋸とロバをもっと堂々と弾いてくれたら、おれたちのほうが打ちのめされていたかもしれないのに……。そう思うと、医者の息子に「悪いことをした」――いじめてしまって、彼のオイストラフやスターンへの道程を閉ざしてしまった、というトラウマが消え去った。

 その後、医者の息子は立派な産婦人科医になっていると、風の便りに聞いた。
 わたしは、ショスタコーヴィチやベートーヴェンの弦楽四重奏を、ワーグナーやヴェルディとともに愛聴している。もちろん、モーツァルトやチャイコフスキーのヴァイオリンの「美しい響き」も、楽しんでいる。
 そして時々、ヴァイオリンを習い始めた子供には、モーツァルトを弾かせるよりも、ショスタコーヴィチやベルクやシェーンベルクを弾かせたほうがいいのではないか…と思って、ひとりで苦笑いするのである。

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