昨年12月19日、読売新聞社代表取締役主筆の渡邊恒雄氏が亡くなった。享年98歳。
そのとき小生がホームページで箇条書きにした言葉を、ここに少々手を加えて、まず再録しておきたい。
@インタヴューを何度申し込んでも(3度だったかな?)受けてもらえなかったですね(笑)
@Jリーグのチェアマン時代の川淵三郎氏に、ナベツネさんが亡くなったときには流石に批判は控えなければいけないでしょうね?と訊くと、「あの人は君より長生きするんじゃないか…」と言われました(この予想は外れましたね・笑)
Aプロ野球の1リーグ化を彼が画策して選手達がストライキで対抗したときのこと。選手達を応援するためナベツネさんの顔面にパイをぶつける計画があった。けど年齢を考えて窒息でもされたら困るので止めました。
B同じときに選手のストライキを支持する集会で「我々の敵はナベツネです」と発言するとフジテレビの『すぽると!』という当時存在した番組が、その発言を放送してくた。昔は気合いが入ってるテレビマンもいましたね。
C記者時代のナベツネさんのワシントン支局勤務が決まったとき、英語の家庭教師に雇われたのが小生の大友人であるロバート・ホワイティング氏だった。ホワイティング氏は野球の話で英語を教えようとしたが、ナベツネさんは長嶋茂雄も王貞治も知らず中曽根康弘は日本のJFKだといった政治の話ばかりしたという。
D巨人のV9時代。優勝ペナントを手にした巨人選手や監督・コーチが、読売本社ビルの各階を回るイベントが毎年あった。その時地下の印刷所や運動部のフロアーでは大歓迎されたが、政治部のフロアーでは早く出て行けと追い出された。その時の政治部長がナベツネさんだったらしい。
EナベツネさんはJリーグの百年構想に対して「川淵がいる限りJリーグは発展しない」と断じた。
Fいま渡邊恒雄氏のことをナベツネさんと「さん付け」で書いているのは以前東京スポーツ紙の1面に「ナベツネは…」と書いて批判したら「批判はイイけど"さん"を付けて」と東スポの担当記者に言われたのでソレに従ってます(笑)。
G川淵三郎氏が「Jの理念」をナベツネさんに教え伝えることができないまま新潮新書で対談して「手打ち」をしたのは本当に残念でしたね。
Iナベツネさんの御冥福をお祈りするとともに日本のプロ野球がメディアの企業野球から一日も早く抜け出ることを心より願います。
さらに、ナベツネ氏の死去について、スポーツの立場から書き残しておきたい。
まず、私が思わず吹き出してしまうほどの笑いを止めることができなかったのは、川淵三郎氏(日本サッカー協会最高顧問)のコメントだった。
「クラブの呼称問題などで侃々諤々の論戦を繰り広げたことが懐かしく思い出されます。渡邊さんとの論争が世間の耳目を集め、多くの人々にJリーグの理念を知らしめることになりました。恐れ多くも不倶戴天の敵だと思っていた相手が、実は最も大切な存在だったのです」(毎日新聞デジタル12/19より)
「最も大切な存在」という表現が「褒め言葉」かどうかは微妙だが、確かに「不倶戴天の敵」と思っていた人物と「論戦」を繰り広げたことによって「多くの人々にJリーグの理念を知らしめることにな」ったのは事実だった。
1993年、10チームでJリーグが誕生した当時、初代チェアマンに就任した川淵氏は、チームを全県に増やし、どんどんJリーグを拡大する方針を発表した。それに対して渡邊氏は、拡大方針に真っ向から反対。チームを増やさず、少ないチームによる「プロサッカー興行」で、利益を独占することを企図した。
そしてチーム名から企業名を削除し、企業スポーツではない「真のプロスポーツ・リーグ」を立ち上げようとした川淵チェアマンの方針にも反対し、読売新聞では「川崎ヴェルディ」「横浜マリノス」といった名称を用いず、「読売ヴェルディ」「日産マリノス」などと表記。
「川淵がいる限りJリーグは発展しない」と公言し、Jリーグとは別のプロサッカー・リーグを作ることまで画策したのだった。
それはプロ野球界での「江川卓投手獲得空白の一日事件(1987年)」や「1リーグ制画策事件(2002年)」などと全く同じ手法と言えた。巨人は自分勝手なやり方に反対する球団が出ると、友好関係のある球団だけで新リーグを作ると脅し、人気球団の巨人が抜けることを恐れる球団相手に、交渉を有利に運ぼうとするやり方を取ったのだった。
ところが川淵チェアマンは、渡邊氏の「ブラフ(脅し)」を全く取り合わず、「新リーグでも何でも創ってください」と言ってのけた。それは、JリーグがJFA(日本サッカー連盟)の傘下にあり、JFAがFIFA(国際サッカー連盟)の認める日本で唯一のサッカー組織だったからで、「別の新リーグ」に加わった選手たちはワールドカップにもオリンピックにも出られなくなるとわかっていたからだった。
そんな「新リーグ」に入ることを希望する選手など皆無で、この闘いは川淵チェアマンの一方的圧勝に終わり、Jリーグが自分の意のままに動かないことを悟った渡邊氏は、東京ヴェルディと名を変えていたサッカーチームを手放し、Jリーグと決別したのだった。
プロ野球の場合は、かなり事情が違った。 1934(昭和9)年に読売新聞社がベーブ・ルースなど超一流選手を多数含むメジャーリーグ・オールスターチームの来日を実現。その対戦相手として結成された大日本東京野球倶楽部が東京読売巨人軍となり、2年後の昭和11年、現在のプロ野球に続く職業野球が発足したという歴史がある。
そのため、本来プロ野球を運営するべき最高責任者であるはずのプロ野球のコミッショナー以上に、読売新聞社の社長が実権を持ち、その権力は、正力松太郎ー務台光雄ー小林與三次??(正力の娘婿)ー渡邊恒雄と、受け継がれてきたのだった。
渡邊氏は、その強い権力を使い、02年に近鉄バファローズが経営難からオリックス・ブルーウェーブに吸収合併されることを発表すると、さらなるパ・リーグ・チームの合併(西武ライオンズとロッテ・マリーンズの合併?)と、「10球団1リーグ制」への移行を画策した。
それに対して堀江貴文氏が率いるライブドアが球界参入を表明し、当時スワローズの選手だった古田敦也選手が会長を務めるプロ野球選手会も、「2リーグ制12球団」の維持を主張。そして古田選手会長は、決定権を持っていない球団代表でなく、決定権を持つオーナーとの会談を希望した。
それに対して渡邊氏が「無礼なことをいうな。分をわきまえないといかんよ。たかが選手が」と発言。この「たかが選手発言」に対してファン(世論)の非難が集中するなか、選手会はプロ野球界初のストライキに打って出たのだった。
そんなとき、選手会を支持する集会にいくつか出席した私は、選手会主催のシンポジウムの席で200人近いプロ野球ファンを前にして「われわれの敵はナベツネです」と発言。
100人近くいた報道関係者のほとんどには無視されたが、フジテレビの『スポルト』という番組が私の発言を取りあげてくれて、その後、プロ野球界のあり方を批判的に取りあげる番組にも招かれた(当時は、まだ骨のあるディレクターが存在しましたね)。
その後、楽天のプロ野球界参入が認められ、選手会の主張する「2リーグ12球団制」は維持され、セパ交流試合が取り入れられるなど、「小さな改革」も進んだ。
一方、渡邊恒雄氏は、翌03年6月に巨人のオーナーを辞任。そのときに残した「野球なんかに関わっている場合じゃないんだ」という言葉でもわかるが、彼は野球を(そしてサッカーも)好きでもなければ興味もなく、ただ読売新聞社の利益に利用できるか否かで動き、利用価値がないと見限ったところで(サッカー界と同様)去って行ったのだった。
そしてプロ野球は、大きく発展すること(球団数やフランチャイズ都市が増えたり、アジアに広がること)もなく、まるで「アメリカ・メジャーの選手供給二軍リーグ」になってしまい、メディアは(ファンも?)メジャーの開幕試合の「日本興行」を喜ぶ(消費する)だけに堕してしまった?
Jリーグのチームは、J1からJ3まで各地域に根差して60チームに増えたことを、渡邊恒雄氏は草葉の陰でどう思うのか?
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