日本相撲協会が「八百長疑惑」から三月場所(大阪春場所)の開催中止を決定した。
大相撲に対する「八百長」の疑いは、過去に何度も取り沙汰され、協会はその都度全面否定してきた。が、今回は携帯メールという物証が初めて存在。警察庁が野球賭博捜査で得た情報(私信)を文科省に渡した経緯の是非はさておき、相撲協会が言い逃れできない立場に立たされたことは事実である。
とはいえ、この事件は、大相撲に八百長が二度と起きないよう……などという綺麗事で語れる問題ではあるまい。
大相撲は「神事」「興行」「格闘技(スポーツ)」の三つの要素から成り立っているイベントである。
明治時代の断髪令の唯一の例外といえる力士の丁髷は、「神事」を掌る力人の象徴であり、横綱の土俵入りは大地を四股で固め五穀豊穣を祈る神事そのものといえる。
また大相撲が相撲甚句や触れ太鼓などの芸能的要素を伴い、力士ができるだけ休場することなく本場所を務めるようにしているのは、「興行」としてファンの期待に応えることにほかならない。
過去には、時としてスポーツ的要素が強くなりすぎ、怪我人だらけで休場する力士が続出し、ファンをガッカリさせた時期もあった。逆に興行的要素が強くなりすぎ、力士が怪我を極度に怖れたことから、無気力相撲に見える取り組みが目に見えて増加し、かつて「土俵の鬼」と呼ばれた元横綱が力士たちに喝を入れたこともあった。
そんなふうに「神事・興行・スポーツ」の三本柱が、揺れながらもバランスを保ち、修正しながら歴史を積み重ねてきたのが大相撲だった。が、今回の事件は、月給百万余円の十両下位の関取が、無給の幕下に落ちるのを回避するための「互助会的八百長取り引き」だった。
そのやりとりが携帯メールに残され、仲介役のベテラン力士が仕切り、星の貸借がシステム化し、金銭の授受が相場化していた。そんな堕落した力士の保身からの「出来山」で『日本書紀』『古事記』以来の相撲の歴史が傷つけられたのではたまらない。
誤解を怖れずに書くなら、七勝七敗で千秋楽の給金相撲を迎えた力士の勝率が高いのも、家族が見物に来たときの幕下以下の若手力士の勝率が高くなるのも、昔から「人情相撲(または「情け相撲」)」として角界や好角家の間では容認されていたものだった。そのような「阿吽の呼吸」も含めて大相撲だった。
それが今回の「情けない事件」をきっかけに、「八百長排除」の掛け声とともに、歌舞伎(双蝶々曲輪日記)や落語(佐野山)にも描かれている「人情相撲」までが否定されれば、それはもはや日本の大相撲とは呼べない無粋で味気のない、ただのスポーツ、ただの格闘技に堕してしまうだろう。
もちろん「八百長」を是認するわけではない。しかし大相撲は、明らかに近代オリンピック競技のようなスポーツとは異なる競技である。
その点を考慮するなら「財団法人日本相撲協会」は「宗教法人」として再スタートを模索するのも一つの選択肢として一考に値するかもしれない。
何も公益法人資格が剥奪されそうだからというのでなく、そのほうが相撲の本質に近いはず。また世界のスポーツの多くが宗教から生まれたことを考えるなら、神道と結びついた大相撲は、スポーツの原型(プロトタイプ)ともいえる。
宗教法人になることの是非は、さらに考慮する必要があるにしても、今回の事件から大相撲を再起、再興させるためには、そのくらいの熟考によって、日本と日本人と日本文化にとって相撲とは「何か?」「どうあるべきか?」を徹底的に考え直す必要があるだろう。 |